亡 半治郎の想い出
               

司法書士  辻   辰二郎

 私は幼少の頃から至って虚弱な体質であったから、私が徴兵検査を受けることになった際、母から「おまはんがこんな年になるまで育つとは毛頭思わなんだ」と呆れていたことを思い出す。その思いは父も同じであった筈。私はもっと早く亡くなるものと思われていたらしい。それほど虚弱であった。
 そして徴兵検査の結果、検査司令官は私に関する身体的データを精査し、私に対して徐に厳然と「第一乙種」と宣し、「然し君の身体は軍隊で鍛えたら必ずよくなるぞ」と付け加えられた。私が検査司令官から申し渡されたことをそのまま父に報告したことは言うまでもない。
 幸いにも私は現役兵として鍛えられ、支那事変にも大東亜戦争にも参加することが出来、現在90歳の峠を越すことができたが、さすが検査官の目の確かさを感じ入っている。
 私が数え年18歳で中学校を卒業したとき、父からも母からも続けて勉学に専念するようと奨められたが、当時私はキリスト教入門(?)していたことと、以前から勉強が嫌いだったことが相乗して私は、「勉強して偉い人になるよりも真面目な、良い人間になることの方が尊いことや」という生意気なことを言って父母の奨めに反抗した。父も母も「それはそうやのやが…」と反論することが出来ず、私はホッとした。その代わり、私は自分で出来ることなら何でも一生懸命、真面目にやろうと父母に誓った。虚弱な癖に内心そういう強いところが私にはあったとみえる。
 然しこの考え方(ものの観方)は今、反省してみても少しも変わっていない。
 私は、現役除隊後、昭和2年に父の筆生という認可を得て、父の仕事の補助をしながら、その実務を覚えたが、それは終戦の翌年、父の亡くなるまで続いた。即ち、昭和21年5月である。他方、私の弟も私と同じように勉強が嫌いで、遊びに熱中する方で、学校の成績も決して優とは言えなかったが、その弟が中央大学在学中に公文試験に合格、併せて卒業後は司法省に就職内定という知らせは父母を驚喜させた。それだけでなく、あの勉強嫌いの弟でさえ公文合格するなら、ということは私にとって大きな刺激となった。それは私が支那事変から帰還の翌年のことであったが、私は父の仕事をやりながら、本格的に勉強する手段はないものかと思案の末、立命館二部(夜間部)ならという途を考え、父にその旨を伝えたところ、父も大賛成で、ことは一決。母も喜んでくれた。私は父母を喜ばせることの功徳の偉大さを経験した。
 こうして、私は立命館二部の学生となったのであるが、時に38歳。その手続きのため当局に入学願書・履歴書等を差し出した際、その受付係が常楽寺の現住職・中島琢浄君であった(これは後日譚)。受付の教授が申されるには「本人を連れて来て下さい。そうしたら面接する」という。私が「本人です。私は昨年。支那事変から帰還したばかりであり、私の弟が中央大学在学中に公文試験に合格したので、それに刺激せられて本格的な勉強を始めたいと思っているのです。彦根から通学するといっても、汽車・電車を利用してのことですから、戦争のことを思えばいと易いことと思います」と答えたところ、教授は私の真剣な態度に打たれ、しんみりした口調で「わかりました、しっかり勉強して下さい」と激励されたことを思い出す。
 大東亜戦争に応召の際、私には家内の他、女ばかり5人が居り、その生活上の負担は、悉く父の双肩にかかっていたわけだが、戦後直ちに、即ち昭和20年8月20日、早くも帰宅することが出来た私は、未だ大学を卒業していたわけではないので、同年9月に復学した。当時は電気事情も悪く、父と一緒に夜鍋(夜仕事)をしている時、しばしば停電する。皆さんも経験あるでしょ。この停電があると仕事を続けることが出来ないので、私は父の後ろに立って父の首すじや背を摩ってやりながら、当時勉強中の浅井清信博士の「意思表示理論」を展開しながら父に話して聞かせる。父は、フムフム成るほど成るほどと頷きながら「わしはこれで安心や」と常づね申していたことを思い出す。それはそうであろう。今まで大勢の家族の生活上の労苦が私の無事帰還により、私と交代することになったのだから。時に父は69歳。父は翌昭和21年5月、亡くなったが、それも脳卒中(?)とかで、突然のことであった。亡くなる当日。朝、家族と一緒に朝食を摂りながら、父が「今日は仕事は家でやることにしたいから、裁判所においてある書類の包みを持って帰ってほしい」と言う。私はその置き場所も知っているので、食後それを取りに裁判所に行き、その書類包みを抱え京橋まで帰ってきたところ(その間5、6分)、長女久子が走ってきて、「おじいちゃんが一寸おかしい」と言う。私が急いで帰宅してみると、父は未だ揚げていなかった自分の寝具の中へ潜り込むような恰好で横になっており、「どうしたの」と呼んでも応えがなく、筆の先に水を含めて口辺を濡らしてやってもそれを吸い込もうともしないので、私は「駄目なのかなァ」と思い、直ぐに病院の院長先生に電話をした。先生は直ちに来て下さり、懐中電灯で調べられた後、そのまま合掌して、診断書を書いておきますから後刻取りに来るよう申されて帰っていかれた。そのとき、母は他行中で家には居らず、夕刻帰宅。自宅が白黒の幕で覆われ、父の枕元には線香が立てられ、父の顔には白布がかけられているのを見てすべての事情を察した。
 母は後日「辻半さんには一生涯迷惑をかけどおしだった」と漏らしたことがあるが、その言葉には真実味が溢れているのであるが、その事情は身内の恥を曝すことになるので私は語りたくない。然し、父もこの母の懺悔の述懐によってすべてを許してやってほしいと思う。私は父の生前に安心させて、見送ることができたことは良かったことと思っている。
 

                                      平成6年4月